岡山城東高校の日々をつづります
岡山城東な日々

学校周辺の文化財(その2)貝殻山遺跡

岡山県南部の住民にとって馴染みのある山の一つに、金甲山(海抜高度403m)があります。岡山市のちょうど南、山頂に電波塔が林立していますので、すぐに分かります。金甲山の東隣にあるのが貝殻山(海抜高度288m)で、山頂で貝殻が見つかるので、その名がつきました。その貝殻とは実は弥生時代の貝塚の貝なのです。

貝殻山のある児島半島は、近世になって本土と陸続きになりました。弥生時代は文字通り島でした。この不便で険しい山の上になぜ人々が住んだのか。しかもごく限られた時期に。謎は深まるばかりです。図の中央、貝殻山山頂に茶色い線で、丸く示されているのが遺跡の位置です。
貝殻山位置

本校の南に貝殻山が見えます。右の高い山が金甲山。送電線の鉄塔の向こうに見えるのが貝殻山です。
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貝殻山は、瀬戸内海国立公園の指定地域内にあり、ピクニックに最適な場所として人気があります。瀬戸内海国立公園は、1934年(昭和9年)に雲仙や霧島とともに、日本で最初に指定された国立公園です。晴れた日には瀬戸内海の島々、四国の山々、岡山市街地から吉備高原と、雄大なパノラマを楽しめます。
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貝殻山遺跡は1973・76年に発掘調査が行われ、弥生時代中期後半の住居跡6棟と貝塚が確認されました。瀬戸内海を囲む地域では、「高地性集落」と呼ばれる弥生時代の集落が、各地で確認されています。「高地性集落」はさまざまな時期に営まれたようですが、弥生時代中期後半には二つのタイプが存在していたようです。一つは貝殻山のように、農地などの生産基盤から離れた見晴らしの良い山の頂に数棟の住居が営まれたもので、そのタイプは、瀬戸内海に面した山頂に多く分布し、集落同士お互いに見渡すこともできます。なかでも香川県の紫雲山(しうでやま)遺跡が特に有名です。
もう一つは、水田などの生産基盤に面し、それとの比高が50m未満の丘陵上に営まれたものです。10棟以上、場合によっては数十棟の住居が同時に存在することが多いので、「集落」と呼ぶにふさわしい規模だといえます。。例として現在の赤磐市(旧山陽町)にあった用木山遺跡を挙げることができます。山陽自動車道の、岡山ジャンクションと倉敷ジャンクションの間の丘陵地帯には、同じ時期の土器が多数散布していますので、おそらく同様の遺跡がそこにもはずです。
用木山遺跡は残念ながら山陽団地の造成によって破壊されましたが、赤磐市山陽郷土資料館に資料が展示されています。また、インターネットでも、発掘当時の写真を見ることができます。山陽団地内には公園として古墳を保存しているところがあり、そこではさまざまな時期の土器片を今でも確認することができます。その際は以前お願いしたように、「観察」に徹していただければと思います。
これら二つのタイプの集落は、どちらも集落の営まれた期間が、中期後半の時期に限定され、後期になると集落は山を下ります。
貝殻山遺跡では、6棟の住居跡が確認されましたが、それらは同時に存在したのではなく、同じ時期には1~4軒の住居がある程度だったようです。石包丁など農耕に関連する道具も発見されており、貝も食料にしていることから、海岸や水田に近い集落と密接な関係があったことがうかがえます。おそらく下の集落と行ったり来たりしていたのでしょう。
では、なぜ、こんな場所に人が住んだのでしょうか。祭祀(お祭り)関係の遺物が確認されていないので、祭祀遺跡ではなさそうです。何らかの社会・経済的理由を考えたほうが良さそうです。
弥生時代中期後半というのは、中国の複数の歴史書に記載されている「倭国大乱」の時期ではないかという説があります。西日本では、多くの集団同士が争い、政治的な緊張状態にあったというのです。もしそれが事実ならば、そのような政治情勢を、この遺跡は反映しているのかもしれません。そう考えると、貝殻山は内海航路を監視する絶好の場所だと言えます。生産基盤に面した丘陵地帯に立地した集落も、防御機能を重視したものだと言えなくもないです。弥生時代後期になって多くの集落が平地に下りたのは、新しい政治的秩序ができあがり、不便な場所で生活する必要がなくなったからだとも考えられます。最近の研究成果によると、そう簡単には片付けられないとのことですが、有力な説であることには変わりがありません。

展望台から北に少し登った平坦面上に、住居跡が確認されました。現在は芝草に覆われていますが、発掘調査後も、この付近で土器や石器の破片を確認することができました。どちらかと言えば、南の四国方面よりは北側の本州方面に面しています。
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画面中央の、道に面した斜面に貝塚があります。以前は説明用の看板がありましたが、今はありません。そのせいか、貝塚に気づく人は少ないようです。現在は草に覆われていますが、それでも、ハイガイ、カキ、小さな巻き貝などを確認できます。貝塚はゴミ捨て場なので、役に立たなくなったものが堆積しています。掘り返しても骨董品的な価値のあるものは出てきません。でも、ゴミ捨て場でも、研究者にとっては、当時の生活を解明する上で貴重な資料です。この状態のままでじっくり観察をお願いします。目をこらすと、土器片や石器片も見つかるでしょう。
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画面左上がハイガイ。貝殻山だけでなく、瀬戸内海沿岸の貝塚で最もポピュラーな貝の一つです。鮮魚店でモ貝という名で売られている貝とよく似ていますが、モ貝というのはサルボウのことです。ハイガイはサルボウやアカガイの仲間ですが、放射状の筋の凸部にごつごつとした凹凸があるのが特徴です。この貝、日本では、絶滅の危機に瀕しているとのことで、現在は有明海で細々と漁獲されている程度です。九州出身の総務課Bは、40年近く前、有明海の干潟でハイガイを大量に捕った記憶があります。あっという間にバケツ1杯くらい捕れたと記憶していますが、今ではずいぶん数が減ったようです。脱線しますが、昨年、有明海で漁業をしている親類から、有明海ではハゼがさっぱり釣れなくなったと聞きました。「干潟の泥が死んどる」とその人は嘆いていました。有明海のハイガイも早晩いなくなってしまうのでしょうか。
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貝殻山から北を見た景色です。百間川の河口が見えます。山の手前に見える平野は江戸時代に干拓されたところなので、当時は今より海は広い状態でした。この海域を、かつては「吉備の穴海」と呼んでいました。貝殻山の集落が、内海航路を監視する役割を果たしていたとするならば、むしろ北側に、より多くの目が注がれていたに違いありません。
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前の画面から視線をやや東に移した地域です。右手に芥子山(けしごやま)が見えます。
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本校から貝殻山が見えるのだから、その逆も可能なはず。画面中央付近を引き伸ばしてみると・・・。
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中央に、横長の黒っぽい体育館の屋根と、その左に本校の時計台がうっすらと見えます。手のひらサイズのコンパクトカメラで撮影しましたが、ここまで、解像力があるとは思いませんでした。

貝殻山から南を眺めると、小豆島・屋島・五色台など香川県の島や山が、一望の下に広がっています。北方面はずいぶん景観も変化しているでしょうが、南方面は、弥生時代もこんな感じだったのでしょうね。「弥生の人も、美しい景色を見ながら山海の珍味を楽しんだ」なんて想像するのは楽しいですが、実際はどうだったのでしょうか。
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